4度目の入院

2010年8月、巡回は最後にしようと思った。成果が出ないからだ。巡回は、福岡、佐賀、長崎に行った。薬をもらいに行く日が1日遅れた。病院に行くと「入院しませんか ?」と言われた。1週間待ってもらい入院した。理由は、隣人をおちょくったからだった。今度の入院は2年3か月に及んだ。1年は閉鎖病棟、1年3か月は開放病棟だった。入院中に育ての母だ死んだ。退院は、グループホームに入居する事が条件だった。そこからデイケアに通った。実家が台風で屋根が飛び、修理費も払えなかったのでそのままにしていたが、市役所福祉課から「相続の手続きをしませんか?」と言って来たので、後払いにしてもらえる所を紹介してもらい、相続の手続きをした。1年掛かった。1年の間に産みの母が死んだ。父親の預貯金は、没収されたが、産みの母の預貯金は、死んだ日から相続開始の日までを没収されて、残りは相続した。生活保護でなくなり、相続財産で暮らし始めた。それでパソコンを買いブログをはじめた。後3か月で相続のお金が底をつくのでまた生活保護に戻る。SHINが絡まれた事件の事は、過去の事であり、今はブログに記事を書けたことに満足している。毎日デイケアに通う事も納得している。ブログに書き込む事も今回で一時休止する。今からは、日々の出来事を記事にすることになる。SHINの記事を読んでくれた人たち、ありがとうございました。

やっと出会えたと警官が言った

2010年5月の夜ファミレスで通報され連行された。内容はSHINが他の客に対し「俺はやくざの組長を知っている文句あったら言ってこい」と言ったというこただった。しかし、少し違う。SHINは、「やくざの組長を知っている者がいたら連れてこい。俺が相手してやる。」と言ったのだ。警察は、調書で「あの人と言い合いになったんですよね」とドアの向こうの人を言った。SHINは、「言い合いになっていませんよ。いったい誰なんですか?」と答えた。警察は、「家の鍵を貸してくれませんか」と言いSHINは手渡した。警察は、「身元引受人がいないと家に帰れません」と言った。身元引受人になってもらえる人を探し帰宅した。家まで25キロの道のりを夜遅く帰った。6月また同じファミレスで店を出る時通報されたらしく警官が10人くらい集まった。SHINは「またお前たちか。自分たちはどこの部署だ」と大声を出した。警官は「0署です」と言い他の者は「警察本部です」といった。すると一人の私服警官が、「この前の人(5月)ですよね」と言い、「出会いたかった。せっかく出会えたんだからもう少し話をしましょう」と言って来た。5月0署を出る時SHINの自転車(フィルムが貼ってある)をまざまざと見ていた連中が5~6人いた。その内の一人と思われる。この警官は、SHINの事を前から知っていて事件に関する事も知っていたに違いない。「逮捕者が続出します」といった事だ。でも、どんな話をしていいもかわからず会話とまではいかなかった。この日の警官達はSHINに協力的だった。その場からすぐに家に帰れた。この日の後は、バスや電車で巡回した。フィルムに文字を書き1メートル四方の棒に括り付け、その棒を持って九州全部を巡回した。事件に絡まれて以来、もう何の動きもなくなった。過去の事になっていた。今回は、ここまで。

巡回が単車に変わった

2度目の入院は、4か月であった。退院して車で巡回していたが、車検がきてお金がなかったので、単車を3万円で購入した。フィルムにマジックで文字を書き単車の両サイドに貼り付け自己主張をした。2009年10月24日不特定多数の人達に単車に貼り付け文字を見せて活動する事を00警察署から口頭で許可を得ているのだが、話し合いは、警察署前の郵便局の所でノーヘルだったので話し合うということに書類上なっている。しかし、実はJA00で通報された事での話が本当だった。ただし、誰も証言しないので、そのまま家に帰る事になった。「何の証言もないものですから」と警察は言っている。この少し前、JA00に入ったが、急になにも言わず部屋の鍵を渡されたこともある。さっぱりわからないが、SHINの行動に他者が反応していることになる。この少しあと3度目の入院になったが、お金も底をつき生活保護に切り替わった。4か月で退院し、今度は単車が壊れたので自転車を買い、同じくフィルムにマジックで自己主張を書いて自転車の両サイドに貼り付けた。とある公園でコピー用紙をばらまいていると、鹿児島からのバスツアーの客の一人が近づいてきて「私の息子も警察にやられたの~~。あなたも頑張ってね。」とSHINを知っているらしい言動だった。他では、鹿児島でタクシーに乗り込むと、運転手が「皆あなたの事が好きですよ」ともいわれた。いったいどれ程の人達がSHINを知っているのだろうと思った。今日は、ここまで。